医療観察法.NET

精神障害を持つ当事者の立場から

はじめのはじめに・・・

山口博之(当事者)
2006年5月

 

このホームページでは「医療観察法」がテーマとなっている事から、前に書いたもので申し訳ないが、「精神看護エクスペール」17巻ー精神看護と法・倫理(中山書店)ーに書いたものから取り上げてみます。これは「はじめに」から読んで頂くと解りやすいと思われますので、題を「はじめ」のはじめ・・・とさせて頂きました。

 

はじめに

法は文字で表されているが、その内容を人が解釈する際に、その意味するところはいかようにも解釈できる。たとえば、「平和への希求」のために相手国を滅ぼす事が大切であると考え、戦争を始める国もある一方で、相互理解を深め、協力し、支え合う方法を考える国もある。
 ここでは、私なりの法律に対する思いと、大阪精神障害者連絡会(大精連、愛称「ぼちぼちクラブ」)が示す法や制度への意見を述べることにする。「倫理」を考える人は「モラル」を考えることも多いかと思うが、特にそういう人たちに、私がここに書いたことを精神障害者の「心の模様(倫理)」の一つと読み取っていただけると幸いである。

 

現行法に感じる矛盾

憲法はその国の法の根幹を示す法律であり、条約はひとたび批准されれば、国家間の約束事として、それを守るか実行することを前提に、各国の国内法の上位に位置づけられると私は考えている。しかし、日本の福祉施設や精神病院内で起こったレイプ事件や虐待事件を耳にするたびに、施設内での肉体的・精神的虐待を禁じた「拷問禁止条約」の無力さを感じる。日本ではこの条約を批准したときから、人権を守るシステムをもたないままにこの条約を放置するつもりだったのかとさえ思うこともある。
 また、国内法のなかには、明治時代につくられたものに多少の修正を加えることで済ませてきたのではないかと思うものさえ存在する。しかし、明治時代につくられた「天皇の国家の手段としての国民」に与えられた法律が、現在の「主権在民」の憲法に対応できるはずがないと考える。
 さらに憲法では「基本的人権」とは「人が生まれながらにもつ権利」とされているが、精神・知的・身体障害者は例外であり、「病いや障害を持っていても人格を有する人間」であるとは考えられないのであろうか、やはり、「国家手段に役立たない者」とした意識が明治時代以来の国内法とともに残っていると思わざるをえないのである。欠格条項*1や年金・保険に残されていた補助や助成の支払い拒否の条項に、その名残がみられる。はたして、昔ながらの国内法は各種人権条約や基本的人権を無視できる最高法規なのであろうか、私にはそう思えるのである。

 

「監護」から「看護」へ

明治のころは、精神障害者には囚人と同じく、「社会を守るために本人に見張りを付ける」という意味で、「監護」という字を用いた。「監獄」という言葉の意味については、「刑を償い、二度と犯罪を犯さぬよう、心理学的な考えも盛り込まれている」と聞いたことがあるが、精神病院において治療という名目で患者が入る「保護室」は、刑務所における「独居房」と同じ造りになっている。ほかにも、病院内にみられる、通路側から見える「ポータブルトイレでの用足し」は、どのような「心理学的治療効果」があり、患者の支援となっているのか、「実証に基づく根拠」を示してほしいものである。
 看護とは、患者を見守ることを表す言葉のはずである。しかし、その意識は、まだ「監護」のままなのであろうか。

 

人権面での国際的な流れ

2002年10月、われわれ大精連も加盟する「障害者インターナショナル(DPI)」が札幌にて「第6回世界大会」を開いた。その後「大阪フォーラム」「琵琶湖フォーラム」も開かれ、世界中から2,000人の障害者が集まり、「行動計画」や「人権条約」について語り合った、これらの催しには各政党の議員団も加わり、政府も否定できないものとなっている。「当事者主権」「医療モデルから社会モデルへ!」「われわれのことを抜きにわれわれのことを決めるな!」「障害種別を超えた連帯!」が叫ばれ、語られたことは忘れようもない。ちなみに、私はDPI常任委員として、「人権」の分科会を担当した。これを機に、「障害者の権利条約」の締結へ向けた動きが活発になり、障害者による提言を考え、案を出す組織として「国際障害者同盟(IDA)」が発足し、議論している。ここでは「DPI日本会議」が出した案が高く評価されている。精神障害単独の団体としては「世界精神医療ユーザー・サバイバーネットワーク(WNUSP)」がIDAに参加している。

 

医療観察法に対する思い

2005年に施行された「心神喪失者等の状態で重大な多害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」(医療観察法)は「保安処分」そのものであるとわれわれは思っている。この法律の成立前、われわれの反対する声に賛同して、「IDA」「WNUSP」は、小泉首相、坂口厚生労働大臣(当時)に抗議書を送りつけている。現在この法律のための施設設置は予定通り進んでおらず、医療関係者の反対も多い。
 ここで、アメリカの弁護士ブルース・エニスの言葉を紹介する。
 「考えてもみよ、ある者が正気であれば、彼がいかに危険であると考えられようと、″将来彼がしでかすかもしれないことのために自由を奪うということはありえない″。アメリカでは、受刑者の85%は再犯をする事がわかっていても、刑が満期に達すると、その日のうちに釈放する。ところが、ある者(前科者も含めて)が『精神障害者』であるとわかると、″彼が将来何をしでかすかわからぬという理由で、彼から自由を剥奪することができるのである″。なぜそういうことになるのであろうか? 正気の者の予防拘禁は禁じているのに、なぜ『精神障害者』の予防拘禁を許しているのであろうか?いわゆる『精神障害者』に対する差別的処遇を求めていくいわれは全くないし、このことは様々な機会に批判・非難を受けるべきことである」
 本書の読者はこれについてどう思われるであろうか。
 また、精神障害者の犯罪率は健常者の1/3程度であるにもかかわらず、精神障害者が罪を犯した場合、精神障害者全体を犯罪者のイメージで取り扱うような報道をするマスコミに対しても疑問を感じる。社会人の一部を「精神障害者カテゴリー」で切り取った場合、それは犯罪者を集めたことにはならない。そこには「社会の一部」として、善い人も悪い人もいるのがあたり前である。
 さらに、脳の器質・機能障害を薬で抑え、何とか普通の生活を送っている人を「犯罪予備軍」のように扱う社会に、「知識を得て変わってほしい」と願い、切なく希望を抱いている。


しかし・・・

法律とは恐ろしいものだと思います。
 なぜなら、解釈でどのようにも使われる「動機」さえ問われずに、常識化されてゆくものだからです。
 私は前述のエクスペールでは、精神障害者の犯罪率は健常者の1/3程度と書きましたが、これは看護職の人たちが受け入れ易くする為の表現です。
 具体的数値で表すと、精神障害者の犯罪発生率は0.6%であり、もっと解り易く表現すると「1000人の精神障害者の中に犯罪者は6人」となります。実は私は「第2回精神保健福祉国内フォーラム」(1991年)以降、「6人の犯罪者をもって残り994人の人権を侵害する理由」を問いかけましたが・・・未だ答えは出されておりません。・・・ この答えが明解にならない限り、「精神障害者だから〜」と「医療における特例」に続き「司法における特例」を精神障害者に押しつけるのは絶対に反対です。

 

*1 欠格条項
特定の地位や職業についたり、社会的に関わったりする資格要件を欠く事由(欠格事由)を定めて権利を制限する法令規定、障害を理由にするもののほか、「禁固以上の刑に処せられて執行が終わっていない者」や「日本国籍を有しない者」などもある。

 

出典:精神看護エクスペール 17 「精神看護と法・倫理」
  当事者の願いー私が思う法律「感」(P170〜)

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