医療観察法.NET

社会が決めた障害への罰

 投稿者 N

2008年2月29日に本ホームページに寄せられた投稿メールをご本人の了解を得て転載します。

 

投稿メール

医療観察法廃止への活動を応援しています。
精神医療の歪んだ姿勢と、医療観察法の矛盾だらけの推進に、社会への不安が募ります。このまま進んだら、社会も、精神医療も、間違った方向へ向かってしまいます。
疑問や伝えたい事が沢山あって、長くなってしまいましたが、よろしくお願いします。

 この法律を推進している精神科医達が、精神医療の強制を対象者への援助として語る事に、違和感(矛盾)を感じます。
 医療観察法で用意されている、手厚い医療や長期に渡る援助(監視?)をどう捉えるかは、人それぞれかも知れません。それが援助と思える人には、有効で効果的な機会になるかも知れません。でも、この法律の姿勢は、強制的・一方的なもので、それを援助と思えない人には人生への侵害です。
(援助プログラムの中で対象者の主体性を保つ努力をしても、大枠のプログラムや方向性を人生に押し付けられ、大勢の勝手に決められた主治医やスタッフに身を委ねさせられる事には変わりありません。また、環境の様々な場面まで精神医療に関与される事、担当する心理・医療関係者の価値観や一存によって、人生に大きな影響を与えられる事にも変わりありません。それを苦しく感じる対象者はいます。)
 援助なら、対象者の価値観、感じ方に合わせて、本人が選べるようにすべきです。用意された手厚い援助を受けるチャンスがあるとしても、それが嫌なら拒否する権利がなくてはおかしいです。本人の意に反して嫌がっている事をするのに、それを“援助”と言うのはあまりに横暴です。
 罪への責任や保安処分なら、確実性・最大の配慮・最小の対処という姿勢が守られなくてはいけないはずです。援助なら、強制力の無い中で、本人の意思に基づく医療が行われなくてはいけないはずです。
 援助だからと言って、不確実さを許し、対象者の権利擁護も不十分なまま進め、さらに、最小限では無く、最大限のアプローチ、濃密で広範囲のアプローチを推進しながら、援助なら持たせてはいけないはずの強制力まで持たせる。これでは、あんまりです。
(強制される手厚い援助を苦痛と感じる対象者にとっては、罰や保安処分なら許されないはずの、援助だからこそ許される範囲まで侵して罰を受けさせられる事になります。)

 何か一つを取って、完全に否定できる事は少ないかも知れないけれど、全体のバランスを見れば、この法律が矛盾の中で、推進者、心理・医療関係者が思うように動かし易く、都合よく作られ、対象者にとって理不尽なのは明らかです。

 これは、医療観察法に限った問題ではありません。一般精神医療においても、治療や援助の名の下で、心理・医療関係者の考えを元に、勝手に患者の人生が動かされる事は少なくありません。その中で様々な人権侵害が正当化され、理不尽な事も平気で行われます。
(他害行為も自傷行為も行っていない、何の緊急性も無い場合でもそうです。それを援助だ。患者のためだ。と思っている心理・医療関係者に躊躇はありません。本人の意志や感じ方への配慮の無さは、患者に恐怖心を抱かせます。患者の人生は、まるで心理・医療関係者の所有物のようです。誰かの考えの押し付けも、患者を無視して嫌がる事をするのも、患者を騙すのも、病気を治すため、不安にさせないため、本人を良く変えるため、患者のため、らしいのです。そんな姿勢に触れて、人として裏切られる体験に、心の傷を負う患者もいます。)
 医療観察法の在り方を見ていると、精神医療の患者への一方的な関係性(権力構造)を、国が承認し、後押しているように見えます。

 医療観察法の根底にあるのは、“精神障害者の事は、心理・医療関係者が決め、管理・コントロールします。”という姿勢です。
医療の中で、医療者が、患者の自己決定権を無視する事を合法化しているのです。しかも、やむ終えない緊急対処に止まらず、社会復帰という目標まで掲げる医療の中で。)
・・・罪に対する責任ではなく、心理・医療関係者が、また罪を犯す可能性があると決めた人が対象者にされ、手厚い精神医療を強制される。そして、担当する心理・医療関係者の考えに基づいて、周囲の連携の中で、あの手この手のアプローチをされ、それに反応し医療者の望む形になるまで一定の期間延長を強制される。さらに、対象者が望まない場合にも、他の社会環境にまで様々な影響を強要される。・・・
これだけの構造上の不利益をしき、権限をふるえる環境をつくった中で、例え、手厚く、素晴らしい医療が行われても、入念な押し付けでしかありません。対象者のための純粋な医療や援助では、決してありません。

 これが援助なら、この法律によって、精神障害者は意志のある人間としての尊厳を否定されています。・・・そして、もし、罰や保安処分なら、医療のすべき事ではありません。

 医療観察法の推進が、精神医療全体の向上に繋がる。という見方も間違っていると思います。
 どんな向上の事ですか?
 一定の強制と周囲の強い連携の下で、精神障害者を管理・コントロールする技術の向上ですか?
 それは、精神医療が向かうべき方向なのでしょうか?
(医療にあるべき姿勢に反した、この特別な条件の中で発展するのは、人を支える医療ではありません。)
 医療観察法の推進は、精神医療全体の医療姿勢に大変な悪影響を及ぼすと思います。
 患者と向き合う姿勢の崩壊。医療者の考えに基づく一方的な医療の確立。保安意識を持つ精神医療に患者が抱く不安
(不安定感)。その中での治療や援助・・・人の一番弱ったところを預かる医療、まして、心や人生や環境まで扱う精神医療において、それは、むしろ後退ではないでしょうか?
 この法律の根底にある姿勢に目を向けて欲しいです。
 どれだけ沢山の精神障害者の社会復帰(形)が整っても、推進者の描いている成果が出せても、この法律が導く向上は、あるべき姿への向上ではありません。

 

※個人的な体験から感じている事・・・

「疑わしきは、被告人の利益に。」この原則を、私は度々思い浮かべます。人を罰する時には、間違いは許されない。慎重でなくてはいけない。そうでなくては、安易に冤罪が生まれて、多くの人が理不尽に苦しむ事になります。でも、精神医療では、「疑わしきは、被告人(対象者や患者)に帰す。」となってしまいます。医療観察法においても、一般精神医療においても、曖昧なリスクは精神科ユーザーが負わされてしまいます。確実な根拠がなくても、全ては心理・医療関係者の判断次第です。
 こんな姿勢を根底に持って、精神医療が、より深く広範囲に精神障害者の生活環境に介入していくのでしょうか?疑いの眼差しと不確実な決めつけの中で、時には本人を無視して一方的な事をし、それを社会が容認するのでしょうか?
 その連携や、手厚さ、アプローチの拡大、国からの後押しが、私は怖くてなりません。
 自分に関わる心理・医療関係者が、必ずしも偏見の無い適切な判断をするとは限らない。心ある人とも限らない。価値観や姿勢や遣り方に共感できる人とは限らない。
 相性が悪く否定的な判断をする人や、姿勢や考えを信頼できない人が、自分の担当医になって、その人の方針で治療を受ける事。その人との連携の中で自分の環境が動かされる状況を思い浮かべてみて下さい。・・・そこには、病気のためでも罪のためでも無い、無意味な苦しみが沢山生まれます。
・・・曖昧な精神医療の中では、不適切な判断にも、倫理違反にも、特定の価値観の押し付けにも、理由を付けるのは簡単です。心理・医療関係者の一存でどうにでもしてしまえます。また、悪意が無くても、医療者が、決め付けや価値観の押し付けに無自覚な場合も少なくありません。・・・そして、さらに、患者の声は、医療者にも社会にも本当に届きません。認知や人格の歪み、病気の症状等にされ、容易に封じ込められてしまいます。・・・

 その中で何の逃げ道も無いような仕組みを作らないで下さい。
精神医療は、医療者による違いや、不確実さ、曖昧さを多く含んだ領域です。弊害やミスや誤算は容易に起きます。医療観察法は、決められた医療者からの精神医療に強制力を持たせ、さらに、そこに保安の役割まで持たせています。医療者による違いを一方的に押し付ける間違いはもとより、曖昧な中で社会への責任という圧力がかかれば、患者への間違いは起こります。

 精神医療(医療)は、苦しい背景を抱えて不安定になっている対象者が、本来の状態に戻れるように、絶対の安心を与える姿勢や環境を整えなくてはいけなかったのに・・・ 一定の強制力を持たせて、安心や信頼が無くても従わせ、強引に形を整えていくような方向に進んでしまって良いのでしょうか?
(医療観察法の鑑定についての論文に、こんなコメントがありました。行われた鑑定について批評し、判定医に指針を示す論文です。“強制的な投薬も含め、より積極的な治療を行う方が妥当だったのではないか。それにより、より治療反応性が明らかになった可能性がある。”・・・周囲に疑心暗鬼で、治療や投薬を拒否している対象者に対して、無理に投薬を行う事は避け、心に寄り添うよう努めた鑑定医への批評でした。周囲からの目が光っている今、既にこんな姿勢が見られます。)
 人が弱った時、苦しい時にかかる精神医療です。
 どんな状態の人にも安心を与える場所であって欲しいです。

 
この法律の早期廃止を願っています。
 また、対象者の拒否権、あるいは、一般医療を選択する権利を、早急に確保して欲しいです。


メッセージ


 私も、精神障害を抱えています。私は、精神障害者は、罪を犯しても責任を負わなくていいとは思っていません。社会や人との関係の中で、相手の傷への責任を考えなければいけないと思います。でも、精神医療が保安や処罰を担うのは間違っています。(強制力を持たせるなら、手厚い精神医療は、対象者への侵害や制限です。純粋な医療や援助ではありませんので、その点は、誤解しないで下さい。)保安や処罰は、警察や司法が確実性を持って行い、精神医療(医療)は、一心に人を支える場所であるべきです。それぞれの状態に合わせて調整は必要かも知れませんが、司法や医療の本来の役割を歪めるような事をすれば、弊害の方が大きいです。
 精神障害は、特別な病気ではありません。過剰なストレスがあれば、誰でもなりえる状態です。また、痴呆症になる可能性の無い人はいません。精神医療にかかる可能性は、誰にでもあります。
 医療観察法の問題は、社会や精神医療全体の在り方を左右する問題です。あなたや、あなたの大切な人が、弱った時に置かれる環境の問題です。一歩踏み出してはしまったけれど、今、もう一度、それぞれの人が、自分の事として、この問題を考えなければいけないと思います。社会全体で、精一杯、この間違いを止めなければいけないと思います。
 医療観察法の縮小・廃止という方向転換によって、社会や医療のあるべき姿を示す事が、未来への大きな一歩となるはずです。
 罪を犯した精神障害者にも、罪とは無関係な精神障害者にも、痴呆症の人にも、心身喪失者にも、純粋な支えとしての医療の保障は必要です。障害を抱えていても、罪を犯した際には、司法から、その責任の範囲で制限を受ける事はあるかも知れません。でも、人生の決定権を奪われてコントロールされる侵害を、医療の中で受ける理由は誰にもありません。その中で起こる苦しみや弊害に耐えなければいけない理由はありません。医療や福祉は、人を支える場所です。対象がどんな人であれ、医療や福祉の主体は本人です。

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