医療観察法の行方
伊藤哲寛 (精神科医)
2007年10月
はじめに
重大事件を起こしたとされる一部の精神障害者に対して特別病棟で強制入院あるいは保護観察所の管理下で通院医療を行う新しい強制治療のシステム、すなわち「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」(以下、医療観察法)が動き出して2年を経過した。
この医療観察法は、2002年3月に政府案として国会に上程されたが、国会の内外からの厳しい批判に晒され、最終的には3会期、1年4ヶ月にわたる異例の審議を経て、その修正案が2003年7月に強行採決という形で可決されたものである。制定直後に鑑定入院中の諸規定が欠落していることが問題になったり、指定入院医療機関の整備ができず一時は施行延期がささやかれたりもしたが、関係者の危惧をよそに、法制定から2年後の2005年7月から施行されている。
精神科医療とリハビリテーションの体制がいまだ十分整っておらず、精神障害者の生活保障や権利擁護の取り組みも遅れているわが国において、この医療観察法がどのように運用され、日本の精神保健医療福祉にどのような影響を与えるのであろうか。
医療観察法は2010年に見直されることになっている。医療観察法の歴史的かつ今日的な位置づけを明らかにし、この法律の施行に伴う問題と今後の課題について検討しておくことが重要である。
I 保安処分論争から医療観察法制定まで
1) 保安処分導入の動向とその頓挫
わが国では最古の法律である大宝律令(701)において、それがどのように運用されていたかはともかくとして、癲狂(精神病およびてんかん)の者には税を課さず、法を犯した場合には減刑するとする定めがすでにみられる。
近代に至ると、心神喪失の状態で触法行為に至った精神障害者については、1880年に制定された旧刑法78条で「罪ヲ犯ス時知覚精神ノ喪失ニ因リテ是非ヲ弁別セザルモノハソノ罪ヲ論セス」と定められ、その行為が罰せられないこととされた。その後、1907年に制定された現刑法の39条にそれが踏襲されたが、この時点であらたに「心神耗弱者の行為はその刑を減軽する」との1項が追加された。
それ以後、触法行為があっても責任能力がない場合には犯罪は成立せず刑罰は科すことができない、あるいは責任能力が制限されている場合には犯罪が成立しても刑罰を減軽する「責任主義」がわが国に定着した。
それでは心神喪失等を理由に刑罰を科せられないあるいは刑を減軽された行為者に対して、他の一切の処分を科すことが許されないのであろうか。この問題を巡る深刻な論争がいわゆる「保安処分」論争である [1]
1907年に現行刑法が制定された際にも、刑法39条によって罰せられないあるいは刑を減軽された心神喪失者等の処遇について、刑とは別の処分を言い渡すことができる規定を刑法に入れるべきではないか、すなわち保安処分を導入すべきでないかとの意見があった。しかし、当時は、1900年に制定された精神病者監護法によって、犯罪行為が行われていない場合も含めて精神障害者の監置処分が現に行われているという理由で保安処分の導入はなされなかった。その後、1927年に「刑法改正予備草案」が出され、精神障害者・いん唖者(いんあしゃ)に対する予防監護、酒癖者に対する酒癖矯正、無節制または労働嫌忌による常習犯罪者に対する労働矯正、刑執行終了者に対する予防拘禁という極端な4種の保安処分が提案された。1940年にも監護処分、矯正処分、労作処分、予防処分の4処分からなる「改正刑法仮案」が提案されたが戦時体制の中で棚上げされた。
戦後も、さすがに労働嫌忌者に対する労作処分や刑期終了者に対する予防処分は除かれたものの、たとえば、精神神障害者の「治療処分」と薬物依存症者の「禁絶処分」を導入して法務省管轄の収容施設で治療あるいは矯正を行うとする「刑法改正準備草案」(1961年)や「改正刑法草案」(1974年)、さらに対象犯罪を放火・殺人・傷害・強制わいせつ・強盗に限定したうえで、「禁絶処分」を「治療処分」に包摂させて精神障害者と薬物依存症者を国立精神病院に収容するとする「刑事局案」(1981)などが提案された 。[2]
このように、戦前戦後を通じて、刑法を改正して、「責任に対しては刑を、危険性に対しては保安処分を」というドイツ刑法に倣った「2元主義」をわが国にも取り入れるべきだとする根強い動きが続いたが、日本精神神経学会など[3]による厳しい批判によって保安処分導入の提案は頓挫し、この問題については、その後10年間、次に述べる処遇困難病棟構想あるいは重症措置患者専門病棟構想が出るまで留保された。
2) 処遇困難患者問題と専門病棟設置構想
しかし、この間にも、精神障害者による事件の過剰報道に触発されて精神障害者対策を求める世論が高まり、あわせて精神障害者を長期かつ過剰に収容してきた精神病院内部からも精神保健法(1987年)が求める病院開放化や社会復帰促進の妨げになるとして「触法精神障害者や重症患者を何とかして欲しい」「事故があっても責任がとれない」という声が上がるようになった。そして、刑事政策としての保安処分に解決を求めることができない中で出されたのが、厚生科学研究「精神医療領域における他害と処遇困難性に関する研究」(いわゆる道下班研究)を踏まえた処遇困難病棟構想である。この構想は若干の変更がなされ、1991年の公衆衛生審議会中間意見に採用された。この中間意見書は、措置入院患者のうち「一般の精神病院内での治療に著しい困難がもたらされる患者」(いわゆる重症措置入院患者)を国公立病院に設置する高水準の「重症措置患者専門病棟」に入院させ治療を行うこととし、その入院・退院の是非を第三者機関である「評価委員会」に判定させるとするものであった。先の道下班の研究報告書では対象を処遇困難患者としていたが、この中間意見書では対象を処遇困難患者から重症措置入院患者へと絞り込み、触法精神障害者対策としての色合いがより濃いものであった。刑法の改正をすることなく、精神保健法(当時)の枠組みを崩さず、一部手直しして、「危険な精神障害者を何とかして欲しい」という世論と「病院の負担を軽くして欲しい」という民間精神病院の期待に応えようとしたものである。
しかし、この構想は、精神科医や精神病者の団体等から、「わが国の貧困な精神科医療の問題を棚上げし、問題を処遇困難とされる人々に押しつけようとするものである」「精神科医療の治安的な役割をことさら強調しようとしている」「対象となる患者を地域医療から隔絶する」など厳しい批判にさらされて、1992年度の精神保健関係予算に組み入れられていたにもかかわらず、立ち消えになった。
3) 新たな触法精神障害者対策の動きとその問題点
このように処遇困難病棟構想あるいは重症措置患者専門病棟構想は一旦立ち消えになったが、1998年頃から一部の司法精神医学者と日本精神病院協会(当時)から、明確に「触法精神障害者」を対象にした新しい処遇システムが必要であるとの主張がなされるようになった。
特に山上[4]による触法精神障害者処遇の現状分析と問題提起は新しい処遇システムの導入を模索する関係者に大きな影響を与えた。その主張は、現行の精神保健福祉法の下では、(1)一貫性を欠く行政措置(心神喪失で不起訴になった精神障害者を検察官が25条通報しても措置鑑定において措置不要、入院不要あるいは医療不要とされることがある)、(2)責任無能力を理由とする抗弁の乱用(詐病による司法から医療の側への逃げ込み)、(3)一部の精神障害者による犯罪の反復(一度責任無能力とされると検察官が容易に不起訴にする問題)、(4)刑務所で長期服役する精神病者の増加(起訴後の検察官や裁判官の厳罰化傾向)、(5)精神病院内の暴力の多発、(6)精神病院における触法精神障害者に対する過剰拘禁など、さまざまな問題が生じており、その解決のためには欧米諸国のように、触法精神障害者処遇策を確立し、専門的治療施設を作る必要があるとするものであった。さらに、かつての保安処分論争や処遇困難患者論争にはなかった「犯罪被害者支援」の観点からの考察も付け加えられた。
山上の主張には傾聴すべき指摘が含まれるが、次の二つの見逃せない問題がある。
一つは、問題の所在が現行制度そのものの欠陥にあるのでではなく、その運用にあるにもかかわらず、その改善への取り組みを諦めているあるいは優先課題にすることを回避していることである。たとえば、「精神病院での暴力事件の多発」、「触法精神障害者に対する過剰拘禁」という問題は、現行の措置入院制度自体の欠陥から生じるのではなく、触法精神障害者も含めて入院患者全体に安全で質の高い医療を提供できる医療環境と職員配置を用意できなかった、わが国の精神医療施策の貧しさにあるのである。それを解決するために触法精神障害者しか入れない立派な施設を作るとする論理が成り立つのは、それが危険な患者を閉じこめる保安施設だからということにしかならない。また、中島ら[5]が詳細に検討し批判しているように、25条通報患者の措置鑑定における措置不要等の判断問題、責任無能力を理由とする抗弁の乱用、一度責任無能力とされると検察官が容易に不起訴にする傾向なども、精神保健福祉法上の入院制度に一義的な問題があるのではなく、その不適切な運用にあるのであり、そのことが触法精神障害者のみを対象とした強制処遇制度の創設の根拠とはなり得ないものである。
もう一つの問題は、触法精神障害者対策として決して成功しているとはいえないイギリスの法制度をあまりにも楽観的にモデルとして採用していることである。保安処分あるいはそれに準じた制度を持つ国の先行きの見えない保安強化の道程を見て取るべきである。
4) 医療観察法の成立
しかし、1999年には精神保健福祉法改正の際の国会付帯決議に「重大犯罪精神障害者の処遇のあり方を検討すること」という一項が加えられることによって、ふたたび精神障害者の処遇を巡る動きが活発になり、2001年には法務省・厚生省合同検討会が設置された。さらに同年6月には多数の犠牲者を出した池田小学校児童殺傷事件が起こり、「精神障害者による凶悪事件」との報道が大々的になされ、「危険な精神障害者を閉じこめよ」という国民の情緒的反応が一気に高まった。小泉首相もまた「精神的に問題がある人が逮捕されてもまた社会に戻って、ああいうひどい事件を起こすことがかなりでてきている」「医療の点でも、刑法の点でも、まだまだ今後対応しなければならない問題がある」と発言し、触法精神障害者対策の動きが加速され、2002年の第154回通常国会に医療観察法案(政府案)が上程された。
この政府案は、心神喪失もしくは心神耗弱の状態で重大な他害行為(殺人、放火、強盗、強姦、強制わいせつ、傷害)を行った者が、不起訴、無罪、もしくは執行猶予となった場合に、検察官が地方裁判所に申立てを行い、”再犯のおそれ”(「再び対象行為を行うおそれ」)がないかどうかを地方裁判所に申立て、それについて裁判官と精神保健審判員(精神科医)からなる合議体が審判を行うとするものであった。合議体は、申立てられた対象者について、原則として入院による精神鑑定を行った上、新たに設置する触法精神障害者専用の病棟(指定入院医療機関)に入院させる必要性、あるいは保護観察所の「精神保健観察官」(後に「社会復帰調整官」と名称が修正された)による精神保健観察下で通院させる必要性があるかどうかを判定するというものであった。
この政府案に対して、日本精神病院協会や日本医師会は賛成したが、日本精神神経学会などの関連医学会や精神保健関係団体、日本弁護士連合会(以下、日弁連)、精神障害者団体などから反対あるいは慎重な対応を求める声明が出された 。[6] 国会審議においても、1)特定の事件を起こしたごく一部の精神障害者に対する特殊な制度ではなく、精神医療福祉の全般的な向上こそ必要であり、日本ではいまだにそれが果たされていない、2)「再犯のおそれ」を正確に予測することはできず本来拘禁されるべきでない人までを拘禁することになる[7] 、3)仮に”再犯のおそれ”の予測がある程度可能としても「公共の安全」ために”再犯のおそれ”でもって人の自由を制限し拘束することは許されない、4)事件を起こした精神障害者の再犯予防に焦点を絞った独自の治療法は確立しておらず、重装備の指定入院医療機関を作ることによって法案対象者の社会復帰が進むとする政府答弁は根拠がない、5)この法案の成立により精神障害者への偏見が助長される可能性がある、6)かねてから問題視されていた警察官・検察官による24条・25条通報や起訴前簡易鑑定などの実態が明らかにされていない、7)刑務所内での精神医療の実態を明らかにする必要があるなどの疑義が出された。
その結果、この国会では成立せず、第155回臨時国会へと継続審議となったが、そこでは与党議員による修正案が提出されて、目的条項に対象者の「円滑な社会復帰の促進」(1条2項)が加えられた。さらにこの法律による処遇が決定される要件も、原案にあった「再び対象行為を行うおそれ」が削除され、「対象行為を行った際の精神障害を改善し、これに伴って同様な行為を行うことなく、社会に復帰することを促進するため、この法律による医療を受けさせる必要があると認められる時」(42条1項1号)と書き換えられた。また、精神医療の改善こそが重要だという指摘に応えるために、法の付則で「政府は精神医療全般の向上や精神障害者の地域生活支援の推進を図るものとする」との文言を追加した。修正案は、触法精神障害者の医療と社会復帰を促進するための法律であることを文言上明確にし、医療観察制度の創設と併せて精神保健福祉施策全体の改善を図る、いわゆる「車の両輪」論を明記する形となった。
野党は、政府案に内在していた根本諸問題が修正案によって解消されたわけではないとして反対したが、修正案は衆議院で強行採決され、次の第156回国会の参議院審議に持ち越された。第156回国会では、日本精神科病院協会による与党議員への献金問題があらたに浮かび上がり審議が迷走したが、2003年7月法案は可決された。
表1 医療観察法成立までの歩み | |
明治13年(1880) | 旧刑法78条「罪ヲ犯ス時知覚精神ノ喪失ニ因リテ是非ヲ弁別セザルモノハソノ罪ヲ論セス」 |
明治33年(1900) | 精神病者監護法:私宅監置の法定化 |
明治40年(1907 | 現刑法39条制定 あらたに「心神耗弱者の行為はその刑を減軽する」を追加 |
大正7年 (1918) | 呉秀三 犯罪精神病者に関する規定がないことに言及 |
昭和2年(1927) | 刑法改正予備草案:精神障害者・?唖者に対する予防監護、酒癖者に対する酒癖矯正、無節制または労働嫌忌による常習犯罪者に対する労働矯正、刑執行終了者に対する予防処分の4保安処分 |
昭和15年(1940) | 改正刑法仮案:監護処分、強制処分、労作処分、予防処分の4保安処分。戦時体制の中で棚上げ |
昭和25年(1950) | 精神衛生法の公布と精神病者監護法の廃止、精神鑑定医による措置入院制度導入 |
昭和36年(1961) | 刑法改正準備草案:労働嫌忌者に対する労作処分や刑期終了者に対する予防処分が除かれ、精神神障害者の治療処分と薬物依存症の禁絶処分を導入。法務省管轄の収容施設で治療あるいは矯正 |
昭和38年(1963) | 法制審議会で刑法改正・保安処分導入の検討開始 |
昭和49年(1974) | 改正刑法草案:対象を精神障害者に絞り治療処分のみを導入。精神神障害者の「治療処分」と薬物依存症者の「禁絶処分」を導入して法務省管轄の収容施設で治療。多方面からの反対で廃案 |
昭和56年(1981) | 刑事局案:対象犯罪を放火・殺人・傷害・強制わいせつ・強盗に限定したうえで、「禁絶処分」を「治療処分」に包摂させて、精神障害者と薬物依存症者を国立精神病院に収容。受け入れられず不採用 |
昭和62年(1987) | 精神保健法 |
平成 3年 (1991) | 公衆衛生審議会「処遇困難病棟」について言及、予算化されるも頓挫 |
平成11年(1999) | 精神保健福祉法改正、国会付帯決議で「重大犯罪精神障害者の処遇のあり方」についての検討を明記 |
平成13年(2001) | 法務省・厚生省合同検討会設置、池田小学校事件発生 |
平成14年(2002) | 通常国会に医療観察法政府案上程、臨時国会で与党修正案提出 |
平成15年(2003) | 通常国会にて医療観察法強行採決 |
平成17年(2005) | 医療観察法施行 |
(2007/10/08伊藤哲寛作成) |
II 医療観察法の運用状況
法制定を受けて、法務省、最高裁判所、厚生労働省は2005年7月までの法施行に向けて準備を開始した。しかし、審判前に行われる鑑定入院に関する法律条項の欠落、指定入院医療機関の未整備などもあり、日本精神神経学会[8] や日弁連[9] から施行凍結ないし延期を要請する意見書が出された。一時は施行延期がささやかれたが、政府は指定入院医療機関の設置基準を緩和し、既存の国公立精神病棟の一部を転用するなどして同法は見切り発車された。
1) 申立て、鑑定、審判の状況
法務省資料によると、表2のように、2005年7月から2007年3月末までの1年9か月の間の申立件数は626件で、このうち9割弱が不起訴処分に基づく申立であった。対象行為は表3のように傷害、放火、殺人等の順に多い。そのうち2007年3月までに審判が終了したのは526件であるが、表4のように、指定入院医療機関での入院決定が約半数の302件、通院決定が111件、この法律による医療は不要とされたのが98件であった。通院と不処遇決定が当初予想していたより多いことが注目される。
これらの数字から、この法律によって毎年300人〜350人が申立てられ、そのうち150〜170人程度が指定入院医療機関に入院することが予想される。
なお、心神喪失者等ではないとされて申立が却下となったものも15件あった。
また、対象者・保護者・付添人(弁護士)は審判決定を不当として抗告できることになっているが、日弁連資料によると、施行後2年間で20件以上の抗告がなされている。却下される場合がほとんであるが、1件が対象行為を行ったと認められないという理由で原審判の決定が取り消されている。
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2) 指定入院医療機関における治療・処遇・社会復帰等の状況
政府の予定では国および都道府県立病院に医療観察法の専用病床を700床設置することになっているが、後述するように法施行後2年経過した2007年7月の時点では、国立関係の10指定入院医療機関に計280床が設置されるに留まっている。
表4に示したように、この病床に2007年3月末までに302人が入院しているが、指定入院医療機関における診断分類、治療内容、処遇状況(保護室使用、外出、外泊等)、社会復帰状況(退院までの期間、退院後の居住地、通院状況など)に関する統計資料はまだ一般に公開されていない。
平均入院期間は平均1年6ヶ月程度が想定されているが、実際にどの程度の入院期間になるかは今のところ不明である。
なお、最高裁判所の資料によると、2007年3月末までに、指定入院医療機関や対象者などから62件の退院あるいは医療終了の申立がなされているが、そのうちで退院許可がなされたのが49件、医療終了が認められたのが3件であった。この52件のうち実際に地域に戻れた人が何人いたかは不明であるが、後述の厚生労働科学研究のデータから、7名程度は地元に戻ったあとも精神保健福祉法による入院を継続していると推定される。
今後、指定入院医療機関における入院中の医療内容や処遇、在院期間、退院後の処遇などの実態が公表され、精細な検討が加えられるべきである。
3) 地域での処遇
審判で通院決定がなされた対象者は、保護観察所の社会復帰調整官による精神保健観察を受けながら、一定の要件を満たした指定通院医療機関に通院しなければならないことになっているが、指定通院医療機関が不足している地域も少なくない。なお、川副[10] 、岩成[11]らの研究によると、通院処遇の審判決定を受けた対象者84名のうち35名(42%)、指定入院医療機関での治療の後に通院処遇に移行した32名のうち4名(13%)が、通院処遇決定後に精神保健福祉法で入院していたとのことである。このことから、2003年3月までに審判で通院処遇を命じられた111名のうち実際に地域生活に移行できたのは65名前後に過ぎないと推定される。
また、指定通院医療機関での通院医療を命じられていたもののうち、2007年3月までに保護観察所の申立てにより治療終了が認められたのは4件であった。おそらく医療観察法による治療終了後も精神保健福祉法による治療が継続されていると推定されるが、これらの実態についても状況把握が必要である。
III 医療観察法の実務上の問題点
医療観察法は、未だ解決されない法理論的問題を棚上げし、さらには精神科医療の貧困さ、司法と医療の弾力的な相互連携の欠如、矯正施設の医療の手薄さなど山積する課題を解決することなく、折衷的、場当たり的に制定されたものである。当然のことながらさまざまな実務上の問題が生じている。
1) 検察官による申立て
医療観察法制定前から、検察官の心神喪失等を理由とした起訴・不起訴の判断(訴追裁量)が曖昧であることが指摘されていたが、医療観察法施行後も訴追判断、医療観察法への申立て、精神保健福祉法による通報などの裁量基準は曖昧なままである。
(a) 傷害の程度が1週間前後の軽微な他害行為で申立てられる事例が相当数認められる。審判で通院命令、不処遇が予想外に多かった要因の一つであろう。他害行為が軽微でも症状が重ければ、この法律による手厚い医療を受けた方が本人の利益であるという考え方もあろうが、それはこの法律の拡大適用といわざるを得ない。通常であればすぐに釈放されるはずの家族相手の殴打事件でも、申立てられてしまうと、仮に審判で通院になったとしても、その前に2ヶ月間前後の鑑定入院をさせられるのである。
(b) 法施行後に他害事件を起こし、精神保健福祉法24条により検察官通報がなされて措置入院していた患者が病状改善し、措置解除予定となった時点で、検察官が不起訴処分として審判申立てを行ったために鑑定入院をさせられた事例がある。措置入院を経て病状が軽快している患者を鑑定入院命令で再度強制収容を行うことが、反治療的であることはいうまでもない。この法律が容易に保安処分的な運用に傾く可能性を示す事例である。
(c) 検察の申立てのうち15件が却下されているが、その多くが起訴前簡易鑑定の責任能力判断が問題とされたものであり、起訴前鑑定と医療観察法鑑定の間のずれが問われる。このことから、逆に、不起訴として直ちに申立てられるべき事例が起訴されてしまう事例もあることも予測される。実際、表2に示した、確定裁判で無罪あるいは執行猶予となってはじめて申立てられた79件の中には、刑の確定までに十分な専門的治療が受けられずにいた人がいるのでないかと心配される。
なお、却下事例には事実認定によるものも含まれている。検察の事実認定の誤りにより1〜3か月の間、医療観察法の鑑定入院を強いられた事例があるということである。検察の事実認定の厳正性が問題となる。
ただし、このような起訴前鑑定、検察官の訴追判断、医療観察法申立判断などの曖昧さは、医療観察法制定以前から存在していた問題であり、医療観察法の施行によってあらためて浮き彫りにされた課題といえる。
(d) 確定判決後に本法の申立てが行われる場合(特に心神耗弱で執行猶予となった場合)、身柄を拘束しないという裁判所の判断にもかかわらず、本法の申立てにより改めて身柄を拘束されることに問題はないか、この場合、起訴前および公判においてすでに精神鑑定がなされているとすると、改めて本法による鑑定を行うのは(目的が異なるとはいえ)対象者にとって加重負担ではないかという問題もある。
2) 鑑定基準と鑑定入院
法制定後に運用上の大きな問題として浮上したのは、鑑定ガイドラインの内容と鑑定入院中の処遇についてであった(日弁連[12] 、日本精神神経学会 [13]、日本精神科病院協会[14] )。
(a) 医療観察法精神鑑定基準の曖昧さ
医療観察法による鑑定は、「対象行為を行った際の精神障害を改善し、これに伴って同様な行為を行うことなく、社会に復帰することを促進するため、この法律による医療を受けさせる必要がある」かどうかを判断するために行われるが、この要件規定は曖昧で多義的である。
鑑定は「鑑定ガイドライン」(厚生労働科学研究班2005)[15]に従って実施されるが、それによると、医療観察法の処遇対象かどうかの判断は、「疾病性」「治療反応性」「社会復帰(阻害)要因」の3評価軸について、過去、現在、将来にわたる時間軸に沿ってなされることになっている。しかし、「治療反応性」を評価するといっても医療観察法による治療と精神保健福祉法での医療の間にどのような違いがあるのかということが明確でなければできないことであり、「この法律による治療の必要性」の判断は実際上恣意的あるいは状況依存的にならざるをえない。また、「再び同様な行為を行うことなく社会に復帰する」ことができるかどうかの判断の要素となる「社会復帰要因」は当初のガイドライン案では「リスクアセスメント」軸として提案されていたものであるが、「再び対象行為を行うおそれ」を法文から削除した国会審議の経緯を無視する評価軸であるとの批判を受けて、その後「社会復帰要因」軸へと変更されたものである。このように医療観察法の目的と対象要件規定の曖昧さが鑑定および審判に少なからぬ影響を与えている。
(b) 鑑定入院中の処遇にかかわる問題
(1) 医療観察法には、鑑定入院中の管理責任、行動制限、治療について規定した条文がない。そのため、鑑定入院中の医療が積極的に行われなかったり、病状が落ち着いても鑑定終了まで保護室に入れられていたりすることがある。本来なら裁判所の責任で鑑定入院中の医療や処遇について一定の基準を定めるべきであるが、2005年3月の厚生労働省の「医療観察法に基づく鑑定入院医療機関の推薦依頼について」という精神保健福祉課長通知において別添参考資料として配付されるに留まっている。刑事訴訟法上の責任能力鑑定においても、鑑定入院中の対象者の権利保障規定がまったくなく、鑑定中の治療や処遇が入院先の病院の裁量に任されてきたことが深刻な問題として指摘されていたが、新法においても同じ問題が残されたままである。
(2) 鑑定入院中の対象者の多くが急性期にあり、時には強制的な治療も必要になることがあるが、その根拠、許される治療の範囲、インフォームド・コンセントなどについての指針が示されていない。極端な場合は電気けいれん療法さえ実施されている。
(3) もっとも手厚い医療を必要とするときに、医療水準の低い従来の精神科病院に入院し、症状が軽快した頃に高規格の指定入院医療機関に移るという、提供すべき医療水準の逆転現象がある。精神保健福祉法下の医療を向上させることなしに場当たり的に制定した医療観察法の矛盾である。
(4) 対象行為や病歴についての情報がないまま鑑定入院医療機関に対象者が送られてくる場合があり、患者への適切な治療が遅れることがある。
(5) 鑑定が終了後も審判決定がなされるまで鑑定入院先に留め置かれ、精神科病院が拘置所的な役割も担わざるをえない。また、鑑定医の都合(たとえば長期の休暇)で鑑定入院期間が1か月延長された事例もある。
3) 審判決定の状況依存性
地方裁判所による審判は、精神鑑定の結果を参考にして、付添人(弁護士)の意見、必要な場合には精神保健参与員(精神保健福祉士等)の意見を聴取した上で、裁判官と精神保健審判官からなる合議体によって行われる。
表4で示したように、2007年3月末までに626件の申立に対して526件の審判決定がなされている。そのうち半数以上の302件で入院必要との決定を受けたが、一方で通院決定、不処遇決定が併せて224件、43%と少なくなかった。軽微な他害行為が申立てられていること、鑑定入院中の治療で審判時には病状が改善している事例があることが、このような結果をもたらしていると思われる。
しかし、個別の事例をみると、指定入院医療機関や指定通院医療機関の整備状況、地域の精神科病院による精神保健福祉法上の入院受け入れ可能性、地域の支援体制の充実度、社会復帰調整官の関与、あるいは付添人の積極的な取り組みなどが審判結果に相当影響しているようで、同じ程度の他害行為、疾病の程度、治療反応性であっても審判決定に違いが出ている。審判における入院決定率の地域差もみられ、たとえば、日弁連の医療観察法部会による2007年4月までの集計によると、大阪では通院決定が入院決定を大幅に上回っているのに、埼玉では逆に入院決定が通院決定に比してきわめて多い。
いずれにせよ、外的諸要因に大きく依存する「社会復帰要因」が、「疾病性」や「(この法律による)治療可能性」を超えて審判決定に大きな影響を与えていることには問題がある。たとえば、指定入院医療機関からの報告によると、審判における診断や治療反応性の判断に問題があり、入院患者の6%は入院命令不要、26%は入院決定に疑問があるいう[16] 。「対象行為を行った際の精神障害を改善し、これに伴って同様な行為を行うことなく、社会に復帰することを促進するため、この法律による医療を受けさせる必要がある」という曖昧な規定の下で、入院、通院、この法による医療不要(不処遇)、却下のいずれの決定になるのか、その分岐点が不明確になっている。
今後、政府原案が現行法へと修正された立法趣旨に沿って、審判が「医療の必要性と社会復帰促進」の方向へと傾くのか、あるいは「同様な行為を行うことなく」に力点を置いた保安処分的な方向へと傾いていくのか、慎重に見極める必要がある。
4) 指定入院医療機関の整備と医療観察法による入院医療
a) 指定入院医療機関の未整備
国は、全国各地の国立(および国立病院機構)や都道府県立病院に30床規模の医療観察法病棟を設置して計700床の専門病床を設置するとしている。しかし、病棟整備が進まない状況の中で、厚生労働省は2005年10月に都道府県知事に対して、指定入院医療機関の設置基準を緩和し14床以下の小規模病棟でも指定できるとする通知を急遽出し、設置への協力を求めた。施行後3か月ではやくも方針転換せざるを得なかったところに医療観察法制定の無理が見て取れる。
国は14か所の国立の精神科専門病院すべてに30床規模の医療観察法病棟を設置する予定であったが、法施行後2年経過した2007年7月までに設置された指定入院医療機関は10病院で、医療観察法のための総病床数はは280床に留まっている。このうち30床規模の病棟設置は7病院のみであり、残りの3病院は既存病棟の改修でしのいでいる。しかも精神保健指定医が確保できぬまま片肺飛行を続けている病院もいくつかある。今後は残りの国立病院機構の4病院に加えて、岡山、大阪、東京、長崎の都府県立病院に専門病棟を設置することが決まっている。さらに国は全都道府県立病院への医療観察法病棟設置を期待しているが、地域住民の反対、高い塀と監視カメラが張り巡らされた保安的病棟設置への抵抗、専門職確保の困難性などがあり、実現は相当困難と思われる。精神科医療全般の底上げが見えない中で、地域精神医療を積極的に担ってきた中核的な公的精神科病院がこれまでのサービスを犠牲にしてまでも医療観察法病棟に資源を集中させることの是非が検討されるべきである。
b) この法律による入院医療とはなにか
指定入院医療機関での医療は「入院処遇ガイドライン」に沿って行われることになっている。現時点で治療方法や治療実績を総合的に評価する資料は公開されていないが、実務上の問題として公式、非公式に指摘されているのは、指定入院医療機関の整備の遅れ、遠方患者の受け入れとそれに伴う社会復帰調整の困難、退院後の地域処遇への移行困難、退院申立てに対する社会復帰調整官の消極的姿勢、熟練精神科医の確保困難などである。しかし、最も重要なのは「この法律による医療」を巡る問題である。指定入院医療機関には、対象者に対して精神保健福祉法下の医療ではできない「この法律による(特別な)医療」を提供し、特別な効果を挙げ、社会復帰の促進を図ることが求められる。たしかに、一般精神科病院には期待できない豊かでかつ厳重な入院環境と職員配置の中で余裕のある医療が可能となったはずである。しかし、重大な他害行為を行った者であっても「疾病性」が明らかで「治療反応性」があるとして送られてきた精神障害者を対象とする限り、一般精神医療と異なった、より効果的で、かつ同様な行為を行うことがないよう再発を抑止できる特異的治療技法はないはずである。
医療観察法における治療特異性を敢えて強調しようとするなら、人格障害者等を対象とした矯正医療ということになろうが、その効果は強制入院下では疑わしいとされている。いずれにせよ、現時点では医療観察法は人格障害者を対象としないことになっているので、当面は「疾病性」「治療可能性」が明らかな統合失調症など、いわゆるストライクゾーンの患者に対象を限定することになる。
一方、一般精神科医療の数倍の医療費を投入する医療観察法病棟の入院対象を、精神保健福祉法による入院患者と大差がない患者に絞ることに対する批判がある。今後、一般精神科医療では対応困難な人格障害者などを入院させるべきだとの声が高まるであろう。
5) 地域処遇を巡る課題
審判で通院決定がなされた患者あるいは指定入院医療機関から退院した患者は、最長5年間、保護観察所の社会復帰調整官による精神保健観察を受けながら、一定の要件を満たした指定通院医療機関に通院しなければならない。一方、地域の指定通院医療機関、保護観察所、地域の保健福祉関係者は「地域社会における処遇のガイドライン」と「通院処遇ガイドライン」に沿って、ケア会議を開催し、緊密なネットワークを通じて継続的な支援を行うことになる。
指定入院医療機関からの退院準備、退院後の通院確保、地域での生活保障と生活支援、病状悪化時の危機介入など、通院決定がなされた対象者への医療、保健、福祉サービスには困難が伴う。特に、特別な入院施設から退院し、保護観察所の精神保健観察下に置かれた患者には負の刻印が相当な重荷となる。地域処遇における調整役としての社会復帰調整官の役割が期待されるが、少ない配置数、広い担当区域、乏しい予算措置、乏しい社会資源などを考えると、その機能は管理的な精神保健観察に限定されよう。
IV 医療観察法の多義的性格
この法律の性格についてはさまざまな意見がある。国会審議や関連論文を詳細に点検した中山[17] は、この法律の狙いについて「(政府案が修正案になったことによって)『医療と社会復帰のための法律』に変わったのであれば、精神保健福祉法との違いは対象行為だけとなり、措置入院制度の見直しだけで十分対応できたはずである。医療観察法は保安的要素を内に秘めつつ、表向きは医療と社会復帰の促進を謳うという二重構造になっていると考えるべきである」と述べ、「本法は『再犯のおそれ』と『医療の必要性』の二つの顔を持つ矛盾した性格のものである」とみる[18] 。中谷 [19],[20]も「(かつての法務省や保安処分推進論者が導入を図った)ドイツの二元主義にならった改正刑法草案とも、精神保健福祉法の措置入院の延長線上に組み立てられたフランス型の旧厚生省案(処遇困難病棟制度案)とも異なる第3の道であり、折衷性をその本質としている」「再犯のおそれや公共の安全という文言を消し、対象者の社会復帰を前面に押し出しているところは医療モデルであるが、6種の重大事件を要件としたり、裁判所や保護観察所が関与したりする点は刑事司法モデルである。その点でかつての保安処分案を引きずっていることも容易にみてとれる」という。
また、処遇困難病棟構想に積極的に関わってきた法律学者の間でも評価が分かれ、町野[21]は「裁判所に処遇決定を委ねるのが妥当かどうかには問題がある。これまでの強制入院手続きは基本的に行政手続きで行ってきた伝統がある。いまの時点で、犯罪を行った精神障害者をそこから切り離し裁判所に委ねることは、精神障害者の犯罪を標的とし、触法精神障害者を精神医療から切り捨てたという印象を人々に与えるおそれがある。」と裁判所の合議体が処遇決定を行う法案の難点を指摘しつつ、この法律は「精神保健福祉法の延長線上にある医療法である」と位置づける。この法律を保安処分にしてはならないとする論者の期待に引き寄せた解釈のように見える。一方、同じく処遇困難病棟構想にかかわってきた平野[22]は「医療観察法は、(措置入院や医療保護入院のように)事後的に法的判断を行うメディカル・モデルとは異なって、入院について事前に法的判断を必要とするのでリーガル・モデルといえる」と異なった解釈をする。
さらに刑法を改正してドイツ型の「刑事治療・改善処分」を導入すべきだとする加藤[23]は「起訴前の検察官の大幅裁量行為を認めた起訴便宜主義を維持しつつ、行政処分である「措置入院制度」に上乗せにする形で、刑事処分でも、民事処分でもない第四の「処分」制度としてあらたに導入し、その入院命令の「受け皿」としても法務省管轄の刑事施設を一切使わず厚労省管轄の保安病院・病棟を新設してすべての治療・処遇を同省に任せようとしたものである」と批判し、その上で「医療観察法による収容命令が憲法違反ではないとするためには、この命令が『地方裁判所』の決定による司法処分ではあるが、『受け皿』が厚労省管轄の保安病院であることから実質的には『措置入院制度』と同じく『メディカルモデル』といわざるを得ない」とする。
このように医療観察法の性格は多義的であるが、重大な他害行為を行った精神障害者対策として生まれた法律が、医療と社会復帰のために精神保健福祉法的な性格を持ち続けることは容易でない。今後、より保安的な色彩の強いものへと変わっていく可能性が大きいとみるべきであろう。
V 医療観察法と精神保健福祉法
医療観察法と精神保健福祉法における医療の違いは次の4点にある。(1)重大な他害行為を行ってはじめて医療観察法の対象となる。(2)本格的な治療が開始される前に2-3か月の鑑定入院をしなければならない。(3)入院、退院の決定は主治医でなく裁判所によってなされる。(4)通院中も裁判所の命令により保護観察所による精神保健観察がなされ、その開始と終了の決定も主治医でなく裁判所によってなされる。
しかし、司法の厳しい制約を受けながらも、触法精神障害者の医療と地域支援は従来の医療・保健・福祉モデルに基づいて提供していくことになる。
すでに述べたように、重大な事件を起こして申立てられても、通院決定あるいは不処遇決定という形で、実質上精神保健福祉法による入院あるいは通院という形で治療が行われることが少なくない。また、精神保健観察を受けながら通院している対象者の病状が悪化した場合も、指定入院医療機関に入院を申立てられることは極めて少なく、多くの場合、迅速な医療提供そして通院医療との連続性という観点から精神保健福祉法に基づく入院が選択されるはずである。
医療観察法の制定後も、長期的に見れば、大部分の触法精神障害者は精神保健福祉法、地域保健法、障害者自立支援法の下でのサービスに戻ってくるのである。その際、触法精神障害者だけを日常のサービスから切り離したり、特別な扱いをしたりしたところで、なんの成果も得られないであろう。触法精神障害者も含めて適切な精神障害者支援が保障される地域支援システムの構築が必須である。医療観察法の制定に当たって政府は「精神医療全般の水準の向上」と「精神保健福祉全般の水準の向上」を約束した。もし、その約束が果たされるなら、そして矯正施設での精神科医療に手を差し伸べる余裕が与えられるなら、医療を必要とする触法精神障害者を特別な医療施設へと閉め出す必要がなくなるはずである。
なお、医療観察法後の措置入院がどうなるかという問題もある。医療保護入院を廃止して精神保健福祉法による強制入院は措置入院に統合するという意見、あるいは措置入院を廃止して医療観察法に1本化するという意見もあり得る。逆に、医療観察法による入院医療の対象者を狭いストライクゾーンに限定するなら、医療観察法を一旦白紙に戻して、措置入院制度の見直しで対応すれば済むのでないかという考え方もできる。
なお、対象者を支援する付添人制度がはじめて精神科医療の世界に取り入れられ、弁護士による対象者支援活動が積極的に行われ、審判決定に重要な役割を果たしている[24]。精神保健福祉法における強制入院制度にもこのようなシステムを導入することが検討されるべきである。
VI 医療観察法とどう向き合うか
繰り返し述べたように、医療観察法は解決すべき優先問題を棚上げしたまま、折衷的、場当たり的に制定されたものであり、対象要件規定も曖昧で多義的である。従って、今後、人格障害、薬物依存、知的障害などに対象を広げ、より司法処分的色彩を強める可能性も少なくない。
たとえば、吉川・山上[25]は「充実した設備、人員配置を誇る指定入院医療機関は、治療困難、精神遅滞、物質関連障害、人格障害という誰もが忌避しがちな問題に正面から取り組むことが期待されている。もし、ここに挙げた問題が医療観察法後も未解決であるとすれば、この新しい医療制度の存在意義は失われてしまいかねないだろう」と述べ法の対象を広げるべきだとする。たしかに、統合失調症などストライクゾーンに絞り込んだ入院決定に対しては、厳しい条件の中で重症患者の治療に当たっている精神科病院関係者からも批判の声が挙がっている。しかし、それは一般精神医療の貧しさが引き起こした歪みである。その歪み故に「再び対象行為を行うおそれ」という一度否定された要件を復活させるべきではない。
医療観察法の管理的性格が地域支援システムに忍び込むという問題もある。医療観察法における入院医療は、突出した予算をつけて、一般精神医療から完全に切り離し「この法律による医療」を特別な病棟で行う。しかし、地域処遇は「精神保健観察」の管理下にありながら、通常の通院医療と日常の地域保健活動に依存して行われる。指定通院医療機関には、その負担を軽減するために通院医療費とは別にわずかな「通院対象者通院医学管理料」が付いている。他方、地域の精神保健福祉サービスのための予算は微々たるものであり、法務省には地域処遇のための予算を大幅に増やしてもらう必要があるとの意見もある。しかし、保護観察所が精神保健観察のために法務省予算を潤沢に確保し、地域精神保健対策に乗り出してくることは地域保健福祉にとって望ましいことではない。
地域処遇については他害事件を起こした精神障害者を特別扱いすることなく、普通の地域精神保健活動の中で支援し続けるべきである。通常の地域保健福祉システムの中に「精神保健観察」を包み込み、無力化していくことが重要である。白澤[26]のいうように、医療観察法の「くびき」から一刻も早く脱するように支援することによって医療観察法に対峙することである。そのために必要なのは「精神保健観察」のための予算でなく、通常の地域精神保健福祉サービスのための思い切った財政支出である。障害者自立支援法の問題も視野に入れて取り組む必要がある。
ところで、包括型地域生活支援(Assertive Community Treatment, 以下ACT)が注目され、いくつかの地域で試みられるようになった。過剰な精神病床、適切な地域精神保健圏域の不在、地域ネットワークと他職種協働チームの未成熟、ケアマネジメントの未定着など、地域精神保健システムが整えられていないわが国にACTを定着させるのは容易でない。それだけにACT導入の意義は大きいが、場合によっては地域の患者管理の道具と堕してしまう可能性もある。医療観察法においても地域処遇の1技法として注目されている。しかし、寛容なき社会の圧力の中で、精神保健観察と一体なり、「地域精神科医療による同意なき患者管理」の道具となる可能性は少なくない。小林[27]は急性期患者の在宅サービスとしてのACTの意義を評価しつつも、英国の最近の動向を紹介しながら、精神科医療ユーザーの地域における権利擁護のために、事前の指示あるいは通告(Advanced directive or statement)や独立した患者権利擁護者制度(Independent Patient Advocacy)が必要であること指摘している。ACTに限らず、地域精神保健サービスの諸技法が医療観察法と結びつき、地域管理の道具と変質していくことに注意する必要がある。
しかし、医療観察法の根本問題は運用上の問題にあるのではない。医療観察法の制定段階で敢えて避けられた根本的な論題、「なぜ精神障害の場合は強制入院、強制治療が許されるのか」という障害者自身からの根源的な問い[28]に答えることができるかどうかが、保安処分問題を通じて問われていると考えるべきである。おそらく法理論的にも医療倫理上もこの問に明快に答えることはできないであろう。精神保健福祉法上の措置入院においても、医療観察法の処遇決定においても、強制が許される根拠は社会保安上の要請によってではなく、せいぜいパレンス・パトリエすなわち「治療を受ける権利」を保障する立場からしかないであろう。横藤田[29]は強制治療システムの法的評価を左右する一つの要因として「精神医学・精神医療に対する信頼度」があるという。しかし、わが国の一般精神科医療の水準は「治療を受けることに同意できない患者」の「表明されない治療を受ける権利」を当人に代わって保障できる水準に達していない。わが国の精神医学と精神医療に対する信頼度が貧しい故に、医療観察法における特別な強制医療が高く評価されるという逆転は解消されるべきである。普通の精神保健・医療・福祉の水準を高め、触法精神障害者も受け入れることができる地域支援システムを創設することが精神保健関係者には求められている。
おわりに−今後の法改正を見据えて−
1907年に現行刑法が制定されて以来、くすぶり続けてきた保安処分問題は、医療観察法という形でほぼ100年後に一応の決着をみた格好になった。しかし、医療観察法の性格は極めて曖昧である。世論や保安処分推進者が(過剰に)期待する公共の安全を目的としたものか、立法者が(表向きに)主張するように触法精神障害者の医療と社会復帰を促進するものなのか。この法律は施行後5年後に見直されることになっている。その際、保安処分として純化されるのか、医療法としての性格を不完全にでも維持し続けるのか、予断を許さない。
イギリスでは、危険な人格障害者の処遇制度を求める世論が高まり、2002年には精神保健法改正草案が示された。その案では、精神障害者の定義を拡大するとともに、強制入院の要件から「治療可能性」を外し、その結果、人格障害者については、犯罪を行っていなくとも、他害の危険性があれば強制入院、強制治療を行うことができるとされた。そして、強制入院・強制治療の必要性の判断は精神科医ではなく、独立機関である精神医療審判所が行うことにしようとするものである 。[30]
わが国においても「公共の安全」への期待が高まり、それに対応して法の治安的側面が強化されている。実際、法制審議会は性犯罪や薬物犯罪の再犯の恐れがある満期出所者を対象に刑終了後も専門施設へ入所させる保安処分制度導入の検討を開始した。
このような状況を考えると法施行5年目に予定されている法見直しでは、明確に保安的な目標を持つ改正案が出されることも予想される。たとえば、山上[31]は「司法精神医療の先進国とされるイギリスは、長い年月の間に一般精神医療の進歩にあわせて改革を重ね、優れた司法精神医療システムの構築に繋がり、そこで発展した司法精神医療は世界のモデルとされるまでになっている」「(人格障害の治療についても)欧米では着実に成果を上げられてきた」とイギリスの司法精神医療を高く評価し、「あらたにスタートしたわが国の司法精神医療に着実に引き継がれることとなるであろう」という。
しかし、危険な犯罪者であっても、治療必要性や治療可能性のない場合に、強制的な精神科医療の対象とすることは妥当ではない。精神科医の役割は医療の提供にあり、刑事司法が担うべき「拘禁」の役割を負うべきでない。イギリスの精神保健法改正論議は、刑罰によってだけでは満たされない「安全欲求」を精神科医療に求めるあまり、医療の原点を見失っている。
2006年12月、国連総会において「障害者の権利に関する条約」が満場一致で採択された。わが国もこの条約を批准することを前提に2007年9月にこの条約に署名した。また、平等を軽視し、個人の責任と社会保安を重視したネオリベラリズムの席巻もようやく終息に向かうことが期待される。精神障害者の自由権、社会権の保障という観点から、医療観察法はもちろん精神保健福祉法や障害者自立支援法も抜本的に見直すべき時期にきている。
精神障害者への偏見と差別は今後も続き、精神障害者隔離を求める世論が大きく変わることはないかもしれない。それ故にこそ、どんな時代にあっても、精神医療保健福祉に関わる者には精神障害者の生活を守り支えるという一点から、ぶれることなく、施策決定に関わっていくことが求められる。
この論文の初出は雑誌「病院・地域精神医学会」(第49巻1号,13-22,2006)である。今回、WEBサイトに掲載するにあたって、あらたな資料や国際的な動向を取り入れるとともに、論旨の不明確なところを書き直したものである。なお、この1年の間に参照すべきあらたな重要文献もでているが、ここに取り入れることができなかった。
精神医療過疎地にて 著者
(引用文献 )
*1楠本孝.保安処分論議の今日的総括.法律時報74,17-22, 2002
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*10
川副泰成他:通院処遇における関係機関の連携体制の構築に関する研究.平成18年度厚生労働科学研究報告書,1-73,2006
*11岩成秀夫他:他害行為を行った精神障害者に対する通院治療に関する研究.平成18年度厚生労働科学研究報告書,1-73,2006
*12日本弁護士連合会「心神喪失者等医療観察法鑑定ガイドライン策定」に関する意見書. 2005.2.25
*13日本精神神経学会:医療観察法における鑑定入院の問題点と見解.2006.4.24
*14日本精神科病院協会:鑑定入院に関する要望書.2006.3.3
*15厚生労働科学研究班「心神喪失等で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」鑑定ガイドライン. こころの健康科学研究事業研究「触法行為を行った精神障害者の精神医学的評価、治療、社会復帰等に関する研究」(主任研究者 松下正明),2005
*16村上優:医療観察法の運用の実態と問題点−指定入院医療施設より−(2006.5.11 日本精神神経学会総会シンポジウム口頭発表)
*17中山研一:心神喪失者等医療観察法案の国会審議−法務委員会質疑の全容. 東京, 成文堂, 28-49, 2005
*18中山研一:心神喪失者等医療観察法の性格−「医療の必要性」と「再犯のおそれのジレンマ」. 東京, 成文堂,2006
*19中谷陽二: 医療観察法の本質を問う−折衷モデルの行方.日精協誌25:16-24,2006
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*22平野龍一:触法精神障害者の処遇.ジュリスト増刊「精神医療と心神喪失者等医療観察法」所収.有斐閣,東京,3-7,2004
*23加藤久雄:刑事政策学からみた「医療観察法」の運用における、司法精神科医の役割と課題について.臨床精神医学35:303-313,2006
*24伊賀興一:付添人からみた医療観察法.臨床精神医学35,295-301
*25吉川・山上:医療観察法制度の意義と課題.精神経誌108:490-496,2006
*26白澤英勝:医療観察法と地域処遇.精神医療41:29-841,2006
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*29横藤田誠:強制治療システムとその正当化根拠−アメリカの憲法判例を中心に.ジュリスト増刊「精神医療と心神喪失者等医療観察法」所収.有斐閣,東京,105-111,2004
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*31山上晧:医療観察法がめざすもの. 臨床精神医学35:245-249, 2006