精神障害者と触法行為をめぐる日本精神神経学会の議論
日本精神神経学会 精神医療と法に関する委員会委員
中島 直(精神科医)
多摩あおば病院
2002年12月
はじめに
I 保安処分推進に向けて委員会活動が行われていた時期
1 前史
2 刑法改正問題研究委員会と意見書、意見交換会
II 保安処分反対論の登場
1 青木、岡田、関口の登場
2 意見書案不承認に
III 金沢学会から保安処分に反対する総会決議へ
1 金沢学会
2 71年総会シンポジウム「刑法改正における保安処分問題と精神医学」
3 保安処分に反対する総会決議
IV 保安処分をめぐる法務省とのやりとり
1 保安処分に反対する委員会の発足
2 改正刑法草案公表
3 72年総会シンポジウム「いわゆる精神病質について」
4 法制審議会、改正刑法草案答申
5 新宿バス放火事件、深川通り魔事件を契機とした保安処分推進の動き
V 日弁連「要綱案」をめぐって
1 「要綱案」の公表
2 「要綱案」への反発
3 「刑事局案」の公表
4 野田レポートとその波紋
5 82年総会シンポジウム「保安処分」
6 日弁連と医療従事者とのやりとり
VI 赤堀問題委員会の活動
VII 宇都宮病院事件、精神保健法成立と「処遇困難者専門病棟」構想
1 宇都宮病院事件発覚
2 処遇困難者専門病棟問題
3 92年総会シンポジウム「医療環境といわゆる処遇困難者問題」
VIII 「触法精神障害者」問題への焦点化
1 学会の動きの変化
2 99年総会シンポジウム「司法精神医学の現代的課題」
3 国会附帯決議と合同検討会
4 01年総会シンポジウム「刑事司法における精神障害者の現状」
5 池田小学校児童殺傷事件を契機とした動き
IX これまでのまとめと今後の展望
はじめに
筆者に課せられた課題は、精神障害者と触法行為をめぐる学会の委員会の活動の歴史である。そもそも医学・医療実践や学会活動は社会情勢と無縁ではあり得ないが、この活動も学会外の状況の影響を非常に強く受けたものの一つである。紙数の限りはあるが、可能な範囲で外部の状況についても記しつつ、委員会活動の歴史についてまとめることとする。周知のごとく、最大の論点は保安処分をめぐってのものであるので、それを中心とした記載になる。
I 保安処分推進に向けて委員会活動が行われていた時期
1 前史
現行刑法が成立したのは1907年である。保安処分新設に向けての動きは戦前から存在した。1921年、高橋是清総理(当時)が刑法改正を諮問し、1940年に、禁固以上の刑にあたる罪を犯した精神障碍者またはいん唖者(いんあしゃ)に対する監護処分、酩酊または麻酔の状態で罪を犯した習癖者に対する矯正処分、浮浪または労働嫌忌により常習的犯罪を犯す者に対する労作処分、刑の執行を終わったが殺人などをなすおそれが顕著な者に対する予防処分の4種の保安処分を規定した改正刑法仮案が出された。しかし第二次世界大戦によりこの検討作業は中断した。戦後、1956年に刑法改正準備会が設置され、1961年に刑法改正準備草案が出された。同案は、精神障害者が禁固以上の刑にあたる行為をし、責任無能力ないし限定責任能力とされて刑の減免が行われるとき、将来再び禁固以上の刑にあたる行為をするおそれがある場合に、保安施設への収容を内容とする治療処分(「仮案」の監護処分にあたる)を言い渡すことができるとした。また、「仮案」の矯正処分にあたる禁断処分も規定した。ここまでの経過においても、学会および学会員が関与していた可能性があるが、資料がない。
2 刑法改正問題研究委員会と意見書、意見交換会
この問題への学会の関与が初めて記録に上るのが同年4月12日の学会第58回総会である。上記の状況を受け、保安処分の立法化につき意見を求められる可能性があるとの認識に基づき、委員会を作ることが決定され、吉益脩夫を委員長として刑法改正問題研究委員会が設置された(精神経誌、63(6):669,1961)。同委員会は活動していたようであるが、59回総会(精神経誌、64(6):653,1962)、60回総会(精神経誌、65(4):379,1963)、61回総会(精神経誌、66(6):511,1964)、62回総会(精神経誌、67(4):525,1965)での報告では検討内容の詳細は明らかにされていない。なおこのころ、いわゆるライシャワー事件に関連した精神衛生法の改定の作業に対して、治安に重点を置いたものとして反対する動きもあり、精神衛生法改正についての陳情書(精神経誌、66(5):427,1964)、声明書(精神経誌、67(3):307,1965)が、それぞれ理事長名で出された。
1965年、委員長が中田修に代わった刑法改正問題研究委員会が、刑法改正に関する意見書第1次案を出した(精神経誌、67(10):1052-1055,1965)。その内容は、上記の改正刑法準備草案に規定された保安処分に関し、保安処分を必要とし、危険な常習犯人、労働嫌忌者に対しても対応すべき、去勢も考慮すべき、禁断処分は最長2年では不十分とするなど、準備草案の視点をより徹底させることを主張したものであった。
1966年1月8日、第1回刑法改正問題に関する意見交換会が開かれた(精神経誌、68(6):928-929,1966)12*,13*。「保安処分の根本的考え方については討論はふかまらなかった。」とされており、保安処分制度そのものへの明白な反対論は記されていない。労働嫌忌者への処分の規定や去勢について批判がなされ、その他用語の問題などが議論されている。
II 保安処分反対論の登場
1 青木、岡田、関口の登場
こうした学会の保安処分推進の方針に対し、精神科医として初めて反対の声を公にしたのが青木であり、1966年2月のことである5*。生来性の犯罪者がいるという人間観の問題性、精神病質者概念の不明確さ、精神病者の犯罪率は低いこと、日本の精神科医療の事情が極めて悪いこと、政治犯が保安処分の対象になるおそれがあることなどが批判点として挙げられている。次いで岡田6*が批判論を展開した。犯罪者であっても精神障害者に必要な医療の機会は保障されるべき、精神病質者に対する医学的治療でできることはほとんどないとした上で、責任無能力または限定責任能力で医療を要するとされた者は精神病院で治療し、そのうち重大な犯罪を犯した者や反社会的傾向の著しい者は国立の特殊精神病院を作ってそこに収容するとの案を出している。但し岡田はその後この特殊精神病院構想については撤回している1*。さらに関口8*は、刑法学者の議論も踏まえて詳細な批判を展開している。学会意見書は特定の学説と一部の人々の意見であること、犯罪統計上犯罪を犯した精神障害者の率は取るに足らないこと、保安処分は刑罰の合理化(能率的で安上がりな刑罰)という発想から出てきていること、精神障害者を犯罪に駆り立てるものは社会政策の貧困と精神衛生対策の欠如であり、司法警察権力に依拠した対策は本来の精神医療の進歩を妨げること、法務省施設における現実の予算支出をみれば出来上がる保安施設の貧困さは予想でき、現在なら病院で治療を受けられる人々をこうした施設に追い込むものであること、保安処分を云々するよりは医療刑務所の改善が先決であり精神科医も強い関心を持つべきであること、常習犯人に対する処分の主張は精神科医の役割とはいえないこと、他国の状況を見ると保安拘禁を行っても犯罪は増加しているし、むしろ社会が受ける損害が大きい犯罪に対しては影響しないこと、精神病質概念は明確でないことなどを指摘し、また委員会の存在自体一般会員にはほとんど知られていなかったなどの問題があり、委員を民主的手続きによって選出しなければならないとしている。
岡田2*は、のちに、このころの大方の精神科医には、精神科医療の厄介者である「犯罪性精神障害者」を保安処分が片付けてくれるだろうという思いがあったと指摘している。また、岡田3*は、保安処分に反対する最初の論文を記すときに、本名でなく筆名を使った方がよいのではないかと心配されたとしている。
2 意見書案不承認に
こうした背景のもと、同年6月11日に第2回刑法改正問題に関する意見交換会13*が開かれた(精神経誌、68(6):929-930,1966)。この場で刑法改正に関する意見書第2次案が配布されたようであるが、それは一般会員には公表されず、精神経誌にも作製されたとの事実が記録(精神経誌、68(3):548,1966)されているのみで内容は掲載されていない。岡田7*によると、この第2次案は、一般会員には公表されておらず、第1次案からの修正点は、労働嫌忌者・去勢などの条項は削除されたが、保安施設は既存の精神病院や矯正施設とは別箇の施設とすること、危険な常習犯人は精神障害者と見なすこともできるとして刑罰とあわせて保安処分も賦課するのがのぞましいとするなど、より保安処分の考え方を明確にしたものであった。第2回意見交換会では、学会は刑法改正にいっさい協力すべきでない、といった反対論が噴出し、結論が出ない事態に至った。
こうした経過を受け、刑法改正問題研究委員会は、刑法改正に関する意見書第3次草案を公表した(精神経誌、69(1):111-115,1967)。第1次案に存在した常習犯や労働嫌忌者への保安処分の提唱を削除し、収容期間についても若干表現を改め、人権への配慮を必要と謳うなど、穏当なものになっており、刑事政策的観点をより徹底させるべきとの観点からの提言は後景化しているが、保安処分を「将来のため甚だ有意義」とするなど基本姿勢は変わっていない。同年11月26日の第3回刑法改正問題に関する意見交換会(精神経誌、69(1):115-116,1967)では、賛成、反対論に根本的なくい違いがあり、結論が出なかった。
翌1967年4月の第64回学会総会で、刑法改正に関する意見書案は承認されず、刑法改正問題研究委員会は解散となり、今後なお慎重に検討を加えるための委員会が作られることとなった(精神経誌、69(4):388,1967)。広瀬貞雄を小委員長として、学会法律関連事項委員会刑法・少年法に関する小委員会が作られ、同年10月2日に第1回会合が開かれた(精神経誌、69(10):1187,1967)。
III 金沢学会から保安処分に反対する総会決議へ
1 金沢学会
1969年5月、第66回学会総会(金沢学会)(精神経誌、71(5):517-518,1969、精神経誌、71(6):607-616,1969)が開かれた。学術講演、シンポジウムは行われず、理事会の不信任案が可決され、新理事が就任した。新理事会は、「基本的態度」で、上述の刑法改正に関する意見書案につき、「精神障害者の人権を守る立場をみずから放棄した。」と否定的